小説みたいな恋をして
鍵を開けてドアを開ける。
スイッチを押すと薄暗い部屋は蛍光灯の白い光でいっぱいになった。
十二畳用の照明に代えたのは、その方がまだ明るい気分になれる気がしたからだ。部屋に荷物を置いて、物音のない隙間を埋めるようにテレビを付ける。どうでもいい音の群れが少しだけ寂しさを紛らわせてくれるいつもの夜だった。
ただいつもと違うのはその後にパソコンではなく本棚に向かった事だ。
わざと隅に置いてあった本は『憂国家族論』、先日唯史のおかげでやっと買う踏ん切りが付いた一冊だった。これを、当の唯史に貸して欲しいと言われているのだ。
光紀は大きく溜息を付いた。
軽いはずの新書本が酷く重く感じるのは内容の所為だ。と言っても実際には少子化社会の家族のあり方を、著者の経験を踏まえて論じている、そう珍しい内容ではない。
この本を重くしているのは作者が作者だからだ。
小林基(もとき)。それは離婚調停で養育権を拒否した光紀の父親だった。
父は、親権は自分が取るが面倒は母に見るようにと言って慰謝料代わりのこのマンションと養育費だけを渡して全てを済んだ事にされた。
母は、とにかく綺麗な人だった。昔ミス日本にも選ばれたという話も本当で年を重ねても周りの母親のように所帯じみる事はなかった。離婚してすぐの頃は男を手玉にとって、光紀にもそれなりの物を渡してくれていたが今では真実の愛に目覚めたと、父から送られてくる養育費すら渡してくれない始末。
父に泣きつけばいい、そうすれば自分は楽になる。
重々承知しながらそれが出来ないのは両親を会わせたくなかったからに他ならない。大好きだったはずの二人が陰険なやりとりをしているのはこれ以上見たくはなかった。
お互いの間にある齟齬に気付きながら別れようとしなかったあの頃のように。
そんな両親が嫌で光紀は自分の中で両親に似ている点を全て否定した。勉強を止めて自分を特別な目で見る取り巻きを排除して、二人が望まない普通の少年になった。言葉遣いも崩して自分の事も「俺」というように心がけた。結果としてそれが離婚の引き金となったのは決して不本意だったとは言えない。
『憂国家族論』にはその頃の事が父の視点で書かれていた。これを誰かに読ませると言う事は自分の抱えている問題全てをさらけ出す事と同じだ。普段なら絶対にどんな事をしてでも断っていただろう。
でも、光紀は悩んでいた。
それは相手が唯史だったからだ。唯史の言った言葉は両親に離婚を選ばせた事に感じていた負い目を許してくれた。
それを止めなかった方も十分悪い、言われるまでそんな事は考えられなかった。
それに、以前のような人を食った態度を取っても普通に接してくれた。光紀の美貌を拝むのでもなく知性を尊ぶでもなく、対等でいてくれた。
そんな彼だから、この本を見せてもいいのかもしれないと思う。
それは賭だった。
勝てば本当の友達が手に入る、負ければ大切な友人の態度が変わる。
それでも、こうして悩んでいるよりはましだ。
明日この本を渡そう、そう決めたら心が軽くなる。唯史の言った通りだ。
やっと決意をした時。電子音が鳴って光紀は電話を調べる。
ナンバーディスプレイを見ると三崎からだった。
「もしもし、・・・はい? ちょっと待ってください、そんな事聞いてませんよ。」
電話は抜き差しならない事態を告げていた。