STRAY CAT 1

 

 

 

気がつけばいつも屋根代わりにしていた低木は、視界の下の方にあった。
「あ・・俺。」
唇が、明瞭な発音を綴る。
服と体の間に隙間があるのがもの凄く変な感じだった。
「俺。」
手を見れば、そこにあるのは見慣れた肉球ではなくて短い爪の滑な肌。
目の前を少しだけちらちらする漆黒の髪だけは名残をとどめていたけれど。その姿は、今まで見上げてきた存在たちと寸分互いはなくて。
俺は、人間だった。
そう、これが俺たちに月が与えてくれる力。
自由に使える手足に明瞭な発音の言葉、言葉のほうは慣れれば猫型のときでも心話というのがあるらしいけど、俺は無理だからこうしてちゃんと話というのが出来るのが嬉しい。
驚いたり極度の緊張や衝撃があると耳や尻尾が出てくるって言う制約はあるけどこれで目的が達せられると思うと胸が躍った。
見てろよ、高杉瑛。
俺は手を握り締めて月に吼えた。

 

そもそも、事の起こりは雨の日の交通事故だった。
凄いスピードで道路を走っていく鉄の塊は俺の妹の命をいとも簡単に奪った。
冷たい秋雨の降りしきる夜だった。
けれど俺はそんな事も忘れて真由に取りすがった。両親から巣立ったあとたった一人の肉親だったから、何よりも大切で、守りたくて。
それなのにピクリとも動かない体、巣立ったばかりの無力な力では真由を引き上げてやることも出来なくて、
茶色いシマシマの身体が何度も車にはねられるのを、俺は助けられなかった。
寒くて、希望がなくて。
もう生きていたくなくて。
近づいてくるエンジン音、悲しみから逃れて楽になりたかった、けれど、
キキーー

甲高いブレーキの音。

バシャリ

大きな音をたてて遠くで何かが水溜りに落ちる音が聞こえる、けれどそちらに顔を向ける前に。

「死にたいのか、お前は。」

低い注意の声。
ああそうだよ、俺にはもう何も残って居ないんだから。
俺はその声を背にもう一度真由の元に戻った、ぼろぼろのその身体を舐めて清めて。
ほら、くすぐったいだろ、いつもみたいに怒れよ。
そこにまたエンジン音が近づいてきて、やっと終わる、そう思ったのに
「馬鹿が。」
青年は俺と真由を抱き上げた。暗くて色は分からないけれど髪の毛と方は濡れていて、でも俺を抱く胸はまだ乾いていて暖かい。
嫌だ。
俺は噛みついた、けれど。何の効果もなくて
「俺は高杉瑛、獣医の卵だ、敵じゃない、安心しろ。」
短く言って瑛は歩き出す。その体を打つ雨の声が随分近く聞こえた、けれど俺が濡れることはなくて。
こいつ、俺達の事庇っててくれてるんだ。
人間は雨が降ると傘というのをさして身を守る。さっき聞いた水音は恐らくそれが落ちる音だったんだろう。
俺達を抱えている所為で彼が濡れている、それに気づいたら申し訳なくなってしまって、俺は暴れるのを止めた。すると、
「みゅ。」
嫌でも感じてしまう既に血が通ってはいない真由の身体。それまで当然のように横にいたのに。
悲しくて、辛くて。
気付いたら大きな水の流れのある所につれて来られていた。
そこで解放されると草の匂い、ここ、河原だ。瑛は小さく手を合わせて、それから手近にあった石で穴を掘る。
出会ったばかりの俺達にどうしてここまでしてくれるんだよ。
けど警戒する元気もなくて、そうしたら。
「羨ましいな。」
瑛が小さく呟いた。
死して尚、思われる真由が羨ましいと、顔色一つ変えないまま言って。
「俺は、一人だ。」
俺なんかよりずっと大きい体をしているのに酷く頼りなく見える綺麗な横顔。
長い睫に水滴が伝う、その肌は夜目にも青白くて俺は思わず人間なんかに見とれてしまった。
けど人間は俺が大人しくしていればなんと穴に真由を入れて土をかけ始めて。
「にゃおッ。フーーッ、フーーッ。」
俺はガブリと瑛の手に噛み付いた。必死に後ろ足でその手を蹴って何とか真由を救出しようとする。その俺の小さな体を瑛はそっと抱きしめて。
「諦めろ、生きていればまたいい事もある。」
そうして片手で動きを封じておいて、容赦なく土をかけた。
「みゃぅ。ぅーー、ぅー」
俺はもがいた、けれど人間の力にはかなわなくて。
土が元通りになったところで瑛は石を置いて俺を下ろすと、
「お別れだ。」
きっぱりと言い放った、そしてそのまま立ち去ろうとする。
俺は即座に真由を隠してしまった土をどかそうとして。
放せ、なんで止めるんだよ、お前には関係ないだろう。
俺は暴れる、けれどさっきとは違って首根っこを掴まれた状態じゃ抵抗になんてならなくて。
この、卑怯だぞ、そんなとこ持ってぶら下げられたら俺、抵抗できないじゃないか。
それでも、俺は何とか身体をよじったけれど大きな人間に対してあまりに無力で。
諦めたころにはこぎれいなマンションの中に連れ込まれた。
「お前は、『イきて』いるから。」
部屋に入ると瑛はそのまま浴室に直行してそれから扉を閉めると俺を浴槽に下ろす。
「ちょっと大人しくしていろ。」
俺は勿論逃げ出そうとするけれど凹凸のない滑らかな浴槽の壁がそれを阻む。キーキーと樹脂に爪を立てて、
耳が、痛い。
けれどそれを無視して、瑛は洗面器にお湯を張る。そして、
「ほら。あったまるぞ。」
言うと俺をその中に入れた。
水、やだ、嫌い。
俺は暴れる、けれど上からシャワーをかけて毛の間に入ったごみを落とされるのは気持イかもしれない。
いや、違う、ほだされちゃ駄目だ。
俺は純血種の証でもある真紅の瞳で瑛を睨むと隙を見つけては爪を立てた。
瑛の白い手にいく筋もの赤い線が散ってそれでも、顔色一つ変えず。
一度捕まってしまえば俺はあまりに無力でなすがままだ。
悔しいからようやく開放された時、俺は盛大に身を震わせて飛沫を放った。
あー、溺れるかと思った、こいつの所為で。
恨みを込めて見上げれば瑛は目を瞑っていて、そっか、水滴が飛んだんだ。
俺は少しだけ反省した、けど、その次の瞬間
「ふぎゃあーー、うーーー、うー。ふぎゃッ」 
何だよ、この音。
温かい風とともに耳元で轟音がして、
耳が割れるッ。
俺は必死で暴れてそうしたら音がして瑛が手に持っていた小さな機械を置いた。
「ドライヤーは嫌いか。」
読めない表情でそう言うと
「なら、ここに居ろ。」
俺を抱き上げてふかふかの布団の上におろす。温かい風の当たるそこは気持がよくて俺は思わず目を閉じてひげをそよがせた。
これは、気持いいかも。
暫くすると濡れた服を脱いだ瑛が温かなミルクを持ってきてくれた。
ほんのりと甘い人肌のそれを前にすると途端にお腹がすいてきて俺は一生懸命にミルクを飲む。黒い毛皮の口元にミルクがついてもお構いなしでミルクに向かっていたら。
「ッ」
あ、お前、今笑っただろう。
かなり腹が立つけれど、今はそんなことよりミルク、後で覚えていろよな。
けど俺の仕返しの前に
「ちょっと待っていろ」」
瑛はそう言って姿を消して、
次にやってきたとき、俺はやっと気が付いた。そうだ、こいつ、こいつだって濡れて寒かったはずなのに先に俺の飯とかしてくれて。
もっと自分の方を大事にしろよッ。
思わずうなるけれどバスルームの向こうにいる瑛に言葉は届かない。
もっとも届いたところであいつは猫の言葉なんて分からないんだろうけど、
それから暫く待つと瑛が戻ってき俺はおずおず見上げた。
よく考えなくてもこいつには凄く世話になった、何が目的だったんだろうか。
嫌な想像が頭を占める。ジィッと見ていると瑛は一度口を開きかけて、黙り込む、そして両手で俺を抱き上げながら言った。
「おまえはアントワーヌだ。」
はぁっ
何なんだよ、いきなり、俺には真って言う立派な名前があるんだぞ。
それを何を血迷ってそんな珍妙な名前で呼ばれなきゃならないんだよ。

俺は、思いっきり抵抗した、けれど。
「『値段のつけられない』そういう意味だ、ぴったりだろう。」
そんな風に言ってもらったのは初めてで、どうしよう、俺、どうしていいか分からない。
胸の中が甘酸っぱくて。
つかまるなんて冗談じゃないのに、「安心しろ、一生お前を捕らえておくつもりじゃない」
その言葉を聞いたとき何故か物足りないような寂しいような気持になって。
どうしていいか分からなくて動けない俺を瑛はまたヒーターの前に下ろす。
「辛いことがあったからな、今日は、休め」
言って瑛もベッドの中に入った。それから何かのスイッチを押すと電気が消える。
なぁ、俺、どうすればいいの?
早すぎて着いていけない展開に瑛の顔の辺りに行けば瑛は微笑んで。
なんて綺麗な顔なんだろう。
「お休み。」
頭を撫でてくれる手が優しくて、心地よくて、俺はついそのままそこで眠りに落ちてしまった。

 

 

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