UP SIDE DOWN
「ん。うーん」
壁にかけてある時計を見るともう夕方になっていた、そういえば時間の感覚がなくなっていたけれど昨日は随分遅かったのだ。
こんなに長い時間続けて眠るのは久しぶりだ、おかげで少し頭が重かった、喉も少しひりつく。そういえばあの雨の所為で嫌というほど水を浴びはしたが、口からは水分を取っていたわけではない。
何か飲むものはないかとキッチンを探そうとしたら、突然ドアが開いた。
「うわっ」
「騒がしい奴だな」
目の前に立っているのは柿崎だ、こちらも起きたばかりらしく寝癖が立っている。昨日は濡れていて気が付かなかったがふわふわの猫毛は、手入れに苦労しそうだった。そして、明るいところで改めて見ると妙な色気のある男だった。
すっきりと通った鼻筋に、細く形の良い眉、アーモンド形の瞳を囲む睫毛は長い。それで居て決して女性的に見えないのはしっかりと凹凸のある輪郭をしているからだ。容姿には自信のある啓一だったが柿崎のそれは勝るとも劣らない。というより、不規則な生活が顔に出ている今なら確実に負けるだろう。
男は顔じゃない、と思っても自信のある分野で負けるのは悔しかった。
とはいえそんな感情を知られるのは耐えられないので、黙り込んだまま憎い相手を睨みつける。すると、
「宿無しに買えるほど、俺は安くないぞ」
挑発的な笑みを見せながら柿崎が言った、舐める癖があるのか唇は濡れて赤みを増している。胸の奥から沸いてくる妙な衝動を振り払いたくて怒鳴るように口を開いた。
「なんで、俺が男なんて買わなきゃ」
「真っ赤になってちゃ説得力ねぇよ」
小馬鹿にしたような態度が、啓一の頭に血を上らせる。けれど次の瞬間、
「だから素人なんだよ」
唇を拭った柿崎は、元の感情に乏しい表情に戻って啓一の横をすり抜ける。
「ちょっと、おい」
突然の変貌に戸惑って、思わず追いすがって肩を掴んだ。
「喉、渇いてるんだろ。ミネラルウォーターくらいならある」
振り向いて淡々と語る男は、どう見てもセックスアピールゼロだ。こんな相手にどうしてあんな衝動を感じてしまったのか、啓一は混乱する。
動けない啓一を置いて、柿崎はもう一つのドアの向こうに消えていった。そして現れたかと思うと手に持っていた二本のペットボトルのうちの一本を投げて寄越す。
「生憎家にはこれしかないんでな」
ボトルに貼り付けられた紙ラベルにはコントレックスと印字されていた。ただの水にしか見えないが、柿崎はキャップを捻って外すとうまそうに喉を鳴らしてそれを飲む。
喉が渇いているのは確かだったから啓一も同じように水を口にした。
カルキ臭さのないその水は、鉄臭いわけではないのに硬質な味がする。
「うまい」
こんなミネラルウォーターは初めて飲んだ、下手なお茶より余程いい。素直に感嘆の声を上げる啓一を、柿崎は興味深そうに見つめて、不意に口を開く。
「一本二百円」
「は? 金取るのかよ、しかもただの水だろ」
500ミリのペットボトルは、ジュースでもそんなにしない。こちらに金がないと分かっていてそんな発言をする柿崎の意地の悪さに敵愾心が強くなる。けれどソファにもたれながら柿崎が口にしたのは、全然違う内容だった。
「その水の定価だ」
一瞬信じられなかった、水に二百円、値段を付ける方も付ける方だが買う方も普通じゃない。
「金持ち自慢か」
目の前の相手の性格の悪さに、一宿一晩の恩を差し引いても完全に貧乏くじを引いたと思った。啓一にもプライドはあるのだ、他人の優越感を満たすための道具にされるなんて冗談ではない。
「世の中には、金があれば可能な贅沢がある」
「自慢話か?」
こうなれば、言い負かして相手の自慢がいかにちっぽけな事を分からせてやるしかない。啓一は挑むような気持ちで、失言になるかもしれない柿崎の次の一言を待つ。しかし返ってきたのは大きな溜息だった。
「説教がそう聞こえるなら、お前は被害妄想の気があるぞ」
「何でお前に説教されなきゃならねぇんだよ」
啓一は思わずカッとなってしまってすぐに手玉に取られてしまった自分にいらつく。それを知ってか知らずにか、柿崎は余裕の笑みを浮かべて、
「足りないものを、求める努力もしない坊やだからさ」
悔しいが言い返せない、現実から逃げてただ生きるだけの人生が楽しいわけではないから。言い返せなくなった啓一を置いて柿崎はまた自室に戻っていく、平日の昼間に家にこもる彼は何者なのか。
一瞬そこをついてやろうかと思うけれど、悔しいが勝てそうにない。
また一人部屋に残って、啓一は無意識に膝を抱えてしまっていた。
頭の中がグルグルしている、ずっと目を背けてきた現実を突きつけられてへこむ自分を浮上させようと必死で考える。
家を出たのはあそこが沈む船だったからだ、そして自分は今自由を手に入れて好きに生きている。その自分の生き方に勝手に踏み込んできたのは柿崎の方なのだ、彼から離れてしまえばもうこれ以上に悩む必要もない。
もうこんな所は出て行こう、決意を決めて啓一は隣の部屋のドアをノックする。
「どうした、気でも変わったか」
読書をしていたらしい柿崎は、こちらを振り向くと無表情のままそう言った.
「生憎と、俺は同性に媚を売らなくたって食い扶持くらい何とかなるんでね」
同性相手に性行為を行って金を稼ぐなんて、異常なのは相手のほうなのだ。そう言いきったのは虚勢ではないつもりだった、けれど、
「その顔で女でも引っ掛けるか、行く末は性病だ」
素星を指されて鼻で笑われる。
「別に死ぬのが怖いわけじゃないんでね」
そう言ったのは虚勢じゃなかった、老いてただ過去にすがって生きる時間なんて要らない。今回こそは柿崎の言葉も自分を揺るがさないと思っていたのに、
「苦しむ事にはなるだろうがな」
「ッ、ならどうしろって言うんだよ」
「売るなら安全に売れ」
偽善や綺麗事ではない言葉に、何故か涙ぐみそうになった。この行きずりの男は自分に施しを与えようとしているのではない、生きる術を与えようとしているのだ。それは何よりも、今必要なもの。
「何が目的だ」
だからこそ、流れてしまいそうな心を必死に食い止める。世の中に慈善事業などないと知っているから、安心したくて。
「ただの風俗の勧誘だ、売り物はいくらあっても困らない」
投げつけられた台詞に、啓一はようやく彼の手を取ることができた。
自分と彼の心を、誤魔化していることにも気がつかないまま・・・。