UP SIDE DOWN
結局、啓一は柿崎についていく事にした。暖かい部屋で着替えまで済ませてまたあの雨の野外に戻るのは、最初からそこに居るよりずっと辛い。
それに、どうせ自分が消えても心配するものも居なければ、何をされたとしても元々希望のなかった人生だ。
どうにでもなってしまえばいいと、半ば自暴自棄にもなっていた。
それから二十分、柿崎がつれてきたのはオートロックのついたマンションだった。といっても内装はいたって普通で、啓一の実家に比べれば随分安っぽい。
「ん? どうした」
思わずしげしげ眺めている啓一を不審に思ったのか柿崎が尋ねてくる。
「いや、意外と普通だなっと思って」
「豪邸でも、期待してたのか?」
こちらが素直に答えているというのに、からかうような事を言ってくる態度に腹が立った。
「ああ、汚い事やってそうな面してるからな」
だからそんな憎まれ口を叩くけれど、男は気を悪くした様子もなく啓一の前にホットコーヒーを置く。その横にはご丁寧にミルクと砂糖にスプーンまで置いてあった。
さり気ない気遣いは、最初に会ったときの態度とは大違いだ。一定しない男の印象に、啓一は違和感を覚えずにはいられない。
「実際、あんた何者なんだ」
耐えられなくなって、はっきりと尋ねた。
柿崎はその問に答える代わりに小さく笑って、砂糖だけを大量に入れたコーヒーを口に運ぶ。そして、
「お前は今、希望があるか?」
唐突にそんな質問をぶつけてきた、着の身着のままの啓一の現状を知っていながら大した皮肉だ。分かりきった回答を答える代わり、啓一は反抗するようにその足をテーブルに乗せた。けれど柿崎は注意せずに、その様子を見ているだけ。超然としたその態度に酷く腹が立って、
「で、あんたは惨めな俺をどうするんだ、慈善事業でもしてくれるのか」
嘲る様に啓一は柿崎を睨みつけた。
「まさか?」
柿崎は声を立てて笑った、蔑みの微笑は背筋が凍りそうになるくらい美しい。
「お前程度の負け犬なんてこの街にはごまんと居る。そいつらは今この時だって借金の形に、あるいは生活苦で体を売っている」
体、それは全ての人間にとって最後の財産だ、柿崎はそんな話しをして自分に何をさせようというのだろう。分からない、けれど危険だと心の中で警鐘が鳴り始める。
「腎臓でも売れってか」
魅入られまいと、啓一は必死で憎まれ口を叩いた。
「一時の小金さえあれば、ここから抜け出す才覚があるというならな」
無理だろうと決め付けてかかる態度が気に食わないが事実その通りだ。内臓を売って一時的に金を得たところで、それで一生食べていけるわけではない。
そしてついこの間まで学生でしかなかった啓一では、またすぐ無一文になるのが目に見えている。
「なら、どうしろって言うんだよッ」
自棄になったようにそう、叫んでしまった。うまい話なんて転がっているはずない、この男の話を聞いてはいけないと思うのに心がついていかない。余裕をなくした啓一に、淡々と告げられたまがまがしい一言だった。
「足を開けばいい、娼婦のように」
急速に柿崎の意図を悟って、啓一は逃げ道を捜す。目の前の男は自分を犯すつもりでここにつれてきたのだ。
「どうせ朽ちていくだけのみだろう、臓器を失うよりは安いと思うが」
慌てる啓一の事を面白がるように男が近づいてきた。けれど、
「男には譲れないプライドがあるんだよ」
「なら用はない、明日になったら出て行け」
柿崎はそう言うと興味をなくしたように背を向けて隣の部屋に去ってしまう。別にどうという事のない話だった、突然絡んできた男が去っていったところで啓一にはなんら問題もない。
雨の日にただで宿を提供してくれるというのだから、美味しいだけの話だった。
それなのに、先ほどの言葉が棘のように刺さって抜けない。
「ちくしょ、なんなんだよ」
もてあました感情に啓一が俯いていると、再びドアの開く音が聞こえた。
「なんだよ」
思わず身構えてしまうと、柿崎は何かを投げて寄越した。
「生憎俺のベッドはシングルでね、そっちは餞別代りだ」
見ればそれは暖かそうな毛布と、袋に入った見慣れたパッケージのビスケット。
どこかで見たことがあると思ったその箱にはカロリーフレンズと書かれていた。一箱で壱日に必要な栄養分の三分の一を摂取できるという機能食品だ。
一瞬、馬鹿にされているのかと思ったけれど出会ってからここに来るまで柿崎はずっと自分と一緒にいた。
つまり普段からこれを大量に家においているのだ、思った以上に寂しい男なのかもしれない。とはいえ一人なのは自分も同じだ、彼の事を笑える立場ではない。
広い部屋に一人というのが落ち着かなくて啓一は耳を澄ました。
けれど、隣の部屋からはもう物音はしない。
大通りでうずくまっている時よりも更に強く、孤独を感じた。
一人で食べたビスケットはまずいというほどではないけれど甘いしょっぱいだけで全然味気ない。それでも久しぶりの暖かい部屋は心地よく、気がついたときには随分と時間が経っていた。