UP SIDE DOWN

 



  土砂降りの雨はいつしか、視界を奪うほどに激しさを増していた。
 雨音に混じって聞こえるのはどこか危なっかしい車の走行音と不機嫌そうな通行人の声。突然の雨は屋根のある家を持ち、傘を買える人間にとっても災難らしかった。
 けれど、そのどちらも持たない啓一にとっては死活問題になってくる。ずぶぬれの格好では今夜の宿を提供してくれる女も引っかからないだろう。
 全く迷惑なことだ。
 やる気を失って啓一は薄暗い路地裏に座り込む、そうすると世界が遠くなった気がした。
 こうして離れてみれば、小さな事に拘ってレールの上を生きる人生がどんなにつまらない事か分かる。多くの人間が口にするのは決まった文句ばかりで、自分である必要性を感じない。
 とは言っても、そんな社会からすら零れ落ちてしまった自分よりは余程まともなんだろうが。
 自嘲気味に笑って、啓一は目を閉じる。
 

このままじっとしていれば、このくだらない生も終わるんだろうか。
 

 住む家を失って半年、厄介になれる場所が完全に尽きてからは三ヶ月になる。寄生虫のように他人の欲望にたかって生きるだけの理由を、啓一は見出すことが出来なかった。

「?」

  不意に、雨が途切れて啓一は顔を上げた。
 見ればそこには空よりも暗い灰色の傘が差しかけられている。持ち主はどうやら男のようだが顔は逆光で見えない、ただ皺一つない上質のスーツを身につけている事だけは分かった。
「なんだよ」
 ずっと雨に当たっていた所為か、啓一の声は自分でも驚くほど掠れて低い。
「いや、随分惨めでみすぼらしい存在がいると思って」
 喧嘩を売っているとしか思えないような暴言だった。しかし、あからさま過ぎるそれを買ってやる義理など啓一には無い。
「暴れたいなら他をあたりな」
 そんな安っぽい挑発しか放てない男を見下すように言い放って、啓一は再び下を向く。それなのに、
「ふっ。はははははっ」
 男は何故か声を立てて笑った。何がおかしいのか気になる、けれど聞いてしまえば負けだと思って俯き続けた。
「やはり、動物を飼うなら犬より猫だな」
 唐突な言葉には、確かに自分を見下す響きが感じられる。相手は一人だ、体格では負けているが先手必勝で急所を狙えば十分に勝算はある。不意を突くために殺気の篭った目は伏せて、全身に力を溜めた。そして、
「自尊心の高い獲物を飼い慣らして牙を抜いて、それから打ち捨てる。考えただけで楽しいと思わないかい?」
 同意を求めるように男は顔を覗き込んできた。今だ、
「うるせぇんだよ」
 目を狙った啓一の拳がカウンターのように男の顔に向かう、けれど。
「殺気が見え見えだ」
 微笑みながら、男は啓一の手首をしっかりと握っていた。反射的にもう片方の手を突き出すが、そちらも容易く捉えられてしまう。持ち主を失って、傘が水溜りの上に落ちた。男は啓一の両手を引いて立ち上がらせると、想像以上に綺麗な目で啓一を見つめてきた。
 堀の深い顔立ちに涼やかな目元、陶磁器のように白い肌に黒髪が張り付いていて言いようの無い色気を漂わせている。水も滴るいい男というのはまさにこういう相手の事を言うのだと、どうでもいい事に感心してしまった。
 その間も、雨は二人の上に降り注ぐ。
 流れ落ちる滴が軽く色を抜いた啓一の髪を流して、その顔が露わになっていく。
 男は啓一に対して満足そうに笑った。
「合格だ、行くぞ」
「行くってどこへ」
 強引に手を引かれて歩き出しながら、啓一は急すぎる展開についていけない。だから、その混乱から何とか逃げようとその手を振り払った瞬間、
「病院だ」
 男は信じられないような言葉を口にしたのだった。

 

 

「うーん、見たところ何も問題はありませんな。でも一応血液検査だけしておきましょう」
 男が啓一を連れて行ったのは本当にただの病院だった。診察してくれたのは初老の医師で、特に何の症状も無い啓一を丁寧に診察してくれていた。
 一体何が目的なのだろう、分からないままに血を抜かれて、
「痛」
 針の傷みに思わず声を出してしまう。昔から血と痛みはとにかく苦手なのだ、その様子を見て医師は安心させるように笑っていった。
「すまないね、『お母さん』を呼んだ方がいいかい?」
 まさかこの年になってそんな事を言われるなんて思っても見なかった、屈辱だ。無言で席を立つ啓一に、
「何も本当の母親を呼ぼうって言うわけじゃない、短気が過ぎる」
 男が呆れたように呟く。
「あれが愚弄じゃなくてなんだって言うんだよ」
「勘違いしてるのはお前だ、『お母さん』というのはこの街のカウンセラーだ。全く、そんな事も知らないって言う事はまだ落ちぶれて間もないって言う事か」
「落ちぶれッ」
「その髪を見れば分かる、伸び放題になる前はそれなりのところで整えてたんだろ」
 図星だった。この男は只者ではない、今更ながらそれを見せ付けられて啓一はとうとう恐怖に耐え切れなくなる。
「俺を、どうするつもりなんだよッ」
 病院というまともな単語に気を許してここまでついてきてしまったが、この男は危険だ。まともな人間はこんな場末で人を拾ったりしない、それでも優秀であるという事実は裏社会とのつながりを連想させた。
「それはこれからの質問の回答次第だな」
 慌てだした啓一に気をよくしたのか男は上機嫌でそう言うと啓一の年を尋ねてきた。
「19」
 素直に答えれば、何故か男は小さく舌打をして見せた。
「誕生日まで後どれだけある」
「二ヶ月」
「なるほど」
 質問の間中、男はじっと啓一の顔を見つめ続けていた。値踏みするような視線は、啓一の言っている事が真実か確かめているようだった。けれど嘘をついているわけではない啓一は真直ぐに相手を見つめ返す。
「第一段階は合格だ」
「柿崎さん、そんなに簡単に信じてもしもの事があったら」
 満足そうに笑う男を医師が驚いたように止める。けれどそれを制して柿崎は啓一に手を差し出してきた。
「まずは話をしよう、君がどちらを選んでも今夜の宿と食事は保障する」
 その手を取った決断がどれほど自分の人生を変えるものだったのか、啓一はまだ気がついていなかった。



 

NEXT