UP SIDE DOWN

 



 


 翌日からは、少しだけまともな暮らしが始まった。起きるまでは体の事が心配だったが、軽い違和感はあるだけで特に問題はないようだ。
 これで未来に続く大金を稼げると言うのならば我慢できないほどではなかった。それでも、
「くっ」
 ベッドから降りようとすれば腰に鈍い痛みがあって、声が上がる。その音が呼んだのか、微かな音を立てて寝室のドアが開いた。
 明るい光の中で見る柿崎は、今日も嫌味なくらいに整った服装をしていてとても昨夜の面影はない。完全に翻弄されてしまって、今もその余韻が残る自分とは大違いだ。口を開けば何故か負けのような気がして、啓一は強くその涼しげな顔を睨み付けた。しかし、沈黙は長くは続かない。
「どうだった? 抱かれる側になった感想は」
 朝一番の台詞がそれだった。
「別に、昔付き合ってた女が大袈裟だったって安心しただけさ」
 次の日は起き上がれないくらい辛かったと、甘える仕草を見せた面影は今は遠い過去。それでも自分だってヤる側の人間だと言うことを示したくてそんな言葉を返した。
「それはお前が下手だっただけだ」
 返ってきたのは余裕の笑み。
「なッ、あんたが貧相なんだろ」
「その割には随分激しく喘いでいたようだが」
「な、違う、痛いだけだ」
 顔が熱いのはあくまで怒りの所為だ、間違っても羞恥の所為ではない。そんな啓一を柿崎は面白がっているようだった。
「それで、感想は?」
 さらに追い詰めようと、重ねて尋ねてくる。とはいえここで黙り込んだら負けを認めるようなものだ、だから、
「思ったより大したことなかったさ」
 強がって見せれば、
「こっちはプロだからな。それとも調教も必要ないくらい、お前に才能があったのか…」
 と、
相手がうまいと認めるのも自分がだらしないと認めるのも屈辱だ、啓一は二の句を告げない。その様子にようやく満足したように柿崎が笑った。
「悪趣味」
 せめてもの意趣返しに、非難してみれば、
「褒め言葉として受け取っておこう」
 余裕綽々の態度にむしろ啓一が腹を立てる
「今に見てろよ」
 口にしてから、自分でも負け犬の遠吠えにしか聞こえないと思った。けれどもう啓一をからかうことには飽きたのか柿崎がそれを指摘することはなく、
「楽しみにしている」
そう言って、ラックのミネラルウォーターと例のパッケージを取り出す。
「ちょっと待て」
「なんだ」
「朝からそれなのか」
 『それ』と言うのは勿論柿崎愛用のバランス栄養食、カロリーフレンドだ。
「栄養的に問題ない」
啓一が驚いた顔をするのを不思議がるように柿崎は答える。しかし啓一は納得できなかった。確かに生物学的には言っていることに間違いはないかもしれない、けれど人として考えれば問題大有りだ。
「そんなんじゃ長生きできないぞ」
 本気で心配してそう言えば、
「お前はしたいのか」
「ッ……」
 生きる理由も意味も感じられないのに、その場の勢いで心に嘘をつくことなんてできなかった。
「なら放っておけ」
 黙りこんだ啓一が納得したと思ったのか柿崎は乾いた音を立ててビスケットのパッケージを開ける。
「駄目だ」
 気がついたらそう言って、柿崎の持っていたカロリーフレンドを奪っていた。
食事というものはただ栄養を取ればいいというものっではないのだ、納得など出来る分けない。
もしかしたら身体を重ねたことで情が移ってしまったのかもしれない、何故か目の前のこの男に食事を義務にして欲しくなかった。
「強情な奴だな」
 柿崎は呆れたようにため息をつく。その顔はどうしていいのか分からなくて途方にくれているようだった、だから。
「そう言うところが気に入ったんだろ」
 ふと思いついて試しに、言い返してみれば、
「よく言う」
 返ってきたのはそれだけ、その上、
「あんたの影響だよ」
笑いながらそう言うと黙ってしまう。
そう言うことだったのだ。目には目を歯には歯を嫌味には嫌味を、正面からぶつかっていけば意外とこの男も自分とそう変わらないのかもしれない。
上から見下ろすように超然としていた男から始めて奪った勝利に、啓一は気をよくして、
「と言うわけで、食事はちゃんとしてもらう」
 と、冷蔵庫を開けた。そして、
「……」
そういえばこの家には食材が全くないのだ、かろうじてあるレトルト食品も朝食むきのものはない。朝食となると出前と言うわけにも行かないし、親が健在だった頃に利用していた外食チェーンもここからだとどう行けばいいのか分からない。偉そうな事を言っても所詮自分はまだ高校中退の青いガキでしかないのだ。どうしたものか困っていると、
「コーヒーがうまい店がある」
そんな声が聞こえた。振り浮くとそこにはばつの悪そうな柿崎の顔があった。



 

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